昭和五十四年十月二十九日 朝の御理解


御神訓

「一、神信心して霊験のあるを不思議とは云うまじきものぞ」


 神信心して、信心とは、我が心が神に向かうのを信心と云うのぢゃ。
 これは信心の始まりです。
 ですから自分の心が神様に向かう、それが信心です。と云うて、そういう信心が、いつまでもそうであってはならない訳です。
 けれども、いわゆる本当の信心、いわゆる神様を信ずる心が、いよいよ強くなる。よいよ真心が強くなる。いよいよ神心が強くなる。
いわゆる信心真心神心。そういう過程を通って、本当の信心と云うですかね、いうなら昨日の御理解をもってすると、いわゆる真の心。
と云う事になるのです。
 真の信心さしてもらえば、真のおかげが受けれらる。
 それは、不思議なこっちゃない。
 もし、真の信心して真のおかげが受けられんなら、それこそ不思議な事だと思わしてもろうて、真の信心を求め、それを願って信心さしてもらわんならん、と云う事になりますね。
 だから、おかげを受けられないと云う事に、まず不思議を感じなきゃいけませんね。
 次の御教えにあります。
 信心して霊験のない時は、これぞ不思議なる事と云う、その信心の真偽が問われる訳ですけれどもね。
 なかなか一遍には理解出来るとも思われませんが、段々、日頃どうもおかげが受けられんようになった。どうして、どうしてと、その、どうしての中に、はっきり分かってくる。
 二十九日の日奈久教会の月末の御礼には、必ず富永先生は出て見えるんですけども、此処二、三回は二十八日に出て来られる様になった。
 二十九日はいつも敬親会ですから、お年寄りの会を丁度しておる時に見えておりましたが、何かの事で二十八日に見えられた時に丁度竹葉会に参加され、やっぱり若い方達の信心を聞かしてもらう方がいい。と云うので、今は一日早く二十八日に出て見えるのです。 昨日も十八日の月次祭のお説教をビデオで見せてもらい、聞かしてもらったんですけれども、終わってから先生が、こういう事を云われるんです。
 「親先生。結局、信心は我情、我欲を取る事ですなあ。
 合楽理念と云うのは、それを行じておると、いつの間にか我情が取れますなあ。
 合楽理念を本気で行じさせて頂いておると我欲が取れますなあ」。
とこういう事を云われるんです。
 私はそれを聞いて、ある意味でちょっと驚きましたね。
 合楽理念は簡単です。明瞭です。おかげが確かです。
 此処までは間違い無いのですけども先生が云われるのはね、「合楽理念によって、いよいよ我が身は神徳の中に生かされてあると云う、実感の中に生きると云う事、神徳を受けていくと云う事。
 これは我情、我欲を取らなければいけないからとても難しい。と思うておったけれども、合楽理念を行じさせて頂く事になったら、いつの間にか我情が取れる。我欲がとれる。
 我が身は、神徳の中に生かされてあると云う事が分かる。
そして合楽に御縁を頂いた時分のテ-プとか書き残しておるものを、
改めて今読み直しております」。と云われた。
 その時に頂いておったものとは全然違った、有難いものに触れる事が出来る。と云うておられます。
 昨日、十八日の月次祭の御説教を頂きながら、今迄は感じ得なかった所が感じられる。物の見方、考え方も全然変わって来る。とこう云うのですね。
 これは、お徳を頂いていく。
 合楽理念と云うのはね、合楽理念の行者としての信心修行が出来よると、ああしたい。こうしたい。ああ、あってもらいたい。といった様な我情が無くなって来るんです。
 ま、いうなら、どうでも良い。といった様な境地が開けて来る訳です。投げやりなどうでも良いでは無くてね。
 我情は神徳の中に生かされてあると云う事が分かるから、それが、
段々、実感として頂けて来る様になるね。
 勿論、天の心の美しい心。潔い心。それは、天の心を行じていく稽古をするから我欲をもつ人間にはきついね。
 そしてそこに生かされて生きてあり。と云うこれは実感である。 頭で分かるのぢゃない。もう芯から分かって来る訳ですね。
 同じお話でも、我情我欲を取って聞くと感じが違って来る。
 自分の思いというものが頭の中にいっぱいある時には、自分の都合の良いようにしかお話が頂けない訳だろうと思うんですね。
 本当の確信に触れる事が出来ない。
 昨日、丁度研修半ばでしたが、福岡から御礼に出て参った方がある。
 私は耳が遠いからよく分かりませんでしたけれども、話によると先だって若先生の御取次を頂いた。
 医者から何々癌と云われ明日手術するので、前の日にお願いに見えた。
 丁度若先生が座っておった。若先生が、あなたが癌と思ったら癌ですよ。
 今、合楽では、この観念と云う事が云われておるね。
 だから、これは癌ぢゃないね、神様の御都合だと思いなさい、ち云われた。帰り道も本当に神様の御都合、神様の御都合という思いをして帰らせて頂いた。そして病院にやらして頂いた処、手術はちょっと見合わせよう。と云う事になった。
 それから一週間経って、昨日ですね、病院に行って再検査を受けた処、全然癌の気が無かった。と云うのですね。
 癌と思えば癌ですよ、とね、だから神様の御都合と思いなさい。 神様の御都合、御都合と思うて帰らして頂いたら、それが手術せんですむと云う事になり、一週間後には癌の気は無いと云うおかげを受けました。
 これは病院に入院して手術をしたつもりで今日は御造営費のお供えに参りました。それこそ月に一回か二回しか参って来ん婦人ですがね。
 我が心が神様へ向かうと云う事はね、只、神様神様、と云うとるだけぢゃ無い事が分かりますね。
 癌と思や癌ですよ、とね。神様の御都合と思う。いわゆる、そこに神様が生き生きとしてござる訳ですね。
 一寸前でしたが福岡の西分会の方ですが、最近、熱心に朝参りを麻生さんのお導きで参って来ます。
 麻生さんが朝の御祈念に参って来ると、必ず一緒に参って見えるんです。
 もうそれこそおかげで、前には本当にお伺いやら、おかげの事ばっかりで自分の都合のよか時だけ参って来る、と云う信心であったのが、朝参りを始めた所が、御造営、御造営と云われるので、帰り道これは、どうでも御造営のおかげを頂かなんならんと思うたら、涙がこぼれてこぼれて仕様がなかった、ち云う。
 ある朝の御祈念の時に、いわば御造営の為のお供えをなさった。それから信心が有り難うなって来た。不思議ですね。
 信心とは結局、神様のお心に添い奉る事だ、と云う事が分かります。
 神様の願いに、応と答えれる元気な心がいる、と云う事が分かりますね。
 我が心が神に向こうただけで、もう信心だとね。
 そこからなら、その信心が教えを頂いて、その教えを繰り返し行じさせて頂こう。と、いうならば、意欲しただけで働きが生まれておったりね。
 その方の場合は、いわゆる朝参りが楽しくなって来た。
 麻生さんが参んなさる時には、その方は随分遠いらしいんですよ。
けども麻生さん、わざわざそこに迎えに行ってやんなさる訳です。 その方から、昨日電話がかかって来た。
 「親先生。今日は本当に楽しい楽しいお夢を頂きましたから、あのうお夢の事ですけども、お届けさして貰います」。と云うんです。
 どういうお夢頂いたんですか、と云うたらね、あの俳優に加山雄三と云う人がおりますね。その加山雄三と二人で登山をしておる。そりゃあげな良か男と一緒に登山をするなら気持ちも良かろう。もうそれこそ楽しい楽しい登山であった。と云うのです。
 そして上に着きましたら、そこには切り干しがいっぱい干してある所を頂いたそうです。
 「そりゃあんた、あんまり楽しいお知らせぢゃなかばい、修行の事よ」。と云うたらガッカリしたごたる風で、「いやあそうですか、
どういう事でしょうか」とこう云う。
 加山というのは、山に加えると書いてあるが、山と云う事は、此処では修行という。
 皆さん信心には、もう修行は絶対つきものですね。
 だから修行を嫌うたんでは、おかげになりません。いわゆる信心になりませんね。
 しかもその信心、その先の若先生の言葉ぢゃないけれども、苦労と思うたら苦労に終わりますよ。と云う事になるわけです。
 癌と思うたら癌になりますよ、と云う事ですね。
 神様の御都合と思いなさい。
 なら、どういう御都合か。と、神様が私に修行を求めておるな、と分からせて頂いたら、それを修行と受けると云う、いうなら観念なんですね。
 段々頂上をめざして進んで行っとりますとね、こう視野が広うなってまいります。
 今迄見えなかった所が見えて来るようになる。頂上がそこに見えて来る頃には、いよいよきついけれども、やはり頂上を極める楽しさがある。
 信心は嬉しゅうとか、楽しゅうとか云うのはそれなんです。
 今迄見えなかった自分の心の中が、見えて来るようになるね。
 いわば視野が広ろうなって来る、心がいよいよ広ろうなって来るね。
 頂上を極めた、だから加山雄三とね。本当におかげ、おかげの時は有難い。おかげを受ければ、ああ不思議な事ぢゃある。有難いと思いよったけれども、朝参りをするようになって信心が分かり出して来た。信心が楽しゅうなって来た。
 そして御造営の事について、こりゃあどうでも自分もおかげ頂きたいと云う事になった。不思議に有難涙がこぼれる。それを実現したら、いよいよ有り難うなって来た。
 信心ちゃ、どこから湧いて来るか分からん喜びに触れられる、と云う事が、いうなら妙賀という。
 喜びの妙、これは信心をしなければ頂けない喜びなんですね。
 それこそ妙賀栄える富貴繁昌であるね。
 その信心の喜びが分かり出して来たら、これからどういう難儀があっても、神様がね、それは難儀ぢゃないぞ。それは修行だぞ。と前もってお知らせ下さっておるのがそのお夢の事であると思うんです。
 山登りを一つ初めよう。頂上を極めよう。いよいよ信心を極めていけよ、と云うお知らせである。
 それには元気な心、勇気のある、いわゆる加山雄三である。
 雄と云うのは英雄の雄が書いてあるだろう。
 あれは確かね、潔い心なんですね。
 そこに自分の心が広うなって来る。今迄見えなかった所が見えて来る様になる。
 そこに改まらずにはおられない事になって来て、頂上を極めた所には、いうならカンコロですね。
 切り干しと云うのは、此処ら辺ではカンコロと云う、大根を刻んで干したやつですね。
 いわゆるカンコロと云うお徳になっておる。と云う事である。
 大根ですけん、そのまま放ったらかすと腐ってしまう。煮て食べればそれまでである。けれども、それをきざんで干しておくと、いつまでおいても悪くならない。
 あの世にも持って行き、この世にも残しておけると云う様な、お徳になるのだぞ。と云うお知らせを頂いておる。
 修行の事でと聞いたら、一寸楽しい様な感じがしたけれども、御理解を頂いてる内に、ああ、そういう事ですか。よし、それなら本気で修行に取り組もう。と云う心が、その方の上に頂けて来る事だろうと思いますね。
 信心修行ね。だから、信心して霊験のあるを不思議とは云うまじきものぞ。と云うその過程の中には、ピンからキリまである。と云う事。
 我が心が神様に向こうたら、もうそこにおかげが表れておる。と云う、それでもいつまでもそれで良い。と云う事ではない。
 神様のお喜び下さるような事に心づかせてもろうて、それの実現に移させてもろうて後に、初めて、こういう楽しい事を感じた事は無かった。と云う喜びに触れて行くね。
 神様は、その喜びだけに安住させてはござらん。
 その喜びをもって潔い、修行の信心。どういう事が起こってきても、どっこいと受け止められる元気な心、「加山雄三」であるね。 山を修行と云う。その修行が加わって視野が広うなって来る。
 そして頂上を極めた所には、もうおかげの世界ではなくて、お徳の世界があった。と云うのですね。
 そして富永先生の信心ではないですけれどもね、合楽理念、合楽理念と云うけれども、比頃、なんとなしに行きづまりを感じておられたような感じであった。
 これはもう人情から神情へ切り替えなきゃだめだね。
 人間心を捨てる。その人間心を捨てると云う事が、我情を捨てる。
と云う事に気がついた。
 私は、信心の有難さ。といった様なものが瞬間的には感じられても、それを持ち続ける事が出来なかった、と云っておられましたが、
所がね、「最近は、その有難い。と云うものを持続出来るようになった」。と云うておられる。
 「いよいよ本当のものになって来たの」。と云うて、昨日話した事でしたね。
 そこには、我情があっては喜びの邪魔になる。我欲があってはなおさらの事。
 合楽理念は、いつの間にか我情が取れ我欲も取れてね、我が身は神徳の中にある喜びを感じさせて頂きながら、おかげを頂いておりますと御理解一つの頂き方、頂き所が違って来る。今迄とは感じが違って来るね。
 もう十年も前に頂いておる御理解を開いて見ると、その時感じ得なかったものを感ずる事が出来る。素晴らしいですね。
 やはり子供の時に感じたのと青年、大人になって感じるのが違う様なものだと思います。
 だから、同じ御理解でも、それぞれに頂き所が違って良いのですね。
 もう枝葉の所を頂いて有難い。と思う人もありゃ、確信に触れて有難い。と思う人もある。それは信心の過程ですから仕方がないです。
 それで良いのですね。それでおかげになるのです。
 そして、そのおかげがカンコロの世界ですね。
 お徳の世界をめざしてもらう。
 そこにはね、お徳を頂かなければ、頂けない不思議が、日々頂く事が出来る。もう毎日毎日が不思議の世界に住む事が出来るのです。
 信心の生活とは、私はそれだと思うのですね。日々が不思議の生活の中に生活さして頂くと云う信心、そういう信心を身につけたいね。
 我が心が神に向こうただけでおかげが受けられる。けどもそれで良いと云う事ではない。
 それが求め給う神様の修行に応えて行く。又は、神様のお心に添え奉ろうとする意欲。
 そういうものが、その過程の中には、生き生きとして息づいておらなければならないと云う事。
 しかもその信心はお徳の世界にあっても同じ事。限りがないね。 一生が修行ぢゃ。と仰せられる尊い修行になっていかなきゃならんと云う事でこざいます。「どうぞ」